Surviving a Tibetan gulag 「チベットの強制収容所を生きのびて」

2006年4月26日 英BBC


サンドルが最初に逮捕されたのは、まだ13歳の時だった。

(全訳)
チベット強制収容所に入れられていたことがあるガワン・サンドルにインタビューした1時間の間、彼女が微笑んだのは一度きりだった。
現在、ガワン・サンドルはアメリカに住んでいる。「あまりに苦痛だった。時間的なことはもう覚えていない」と彼女は言った。2002年に解放されるまで、彼女は12年間を収容所で過ごしたサンドルは、まだ20代後半である。
彼女が最初に収容されたのは13歳のときであった。ラサにある夏の宮殿(ノルブ・リンカ)の近くで、ガル尼僧院の尼僧たちと抗議活動に参加し、「チベットに独立を」「ダライラマに長寿を」と叫んだ後のことだった。
グツァの拘置所で9ヶ月を過ごした後、解放されたが、その後の自由な生活は長く続くことはなかった。1992年、再びデモに参加した彼女は逮捕され、悪名高いドラプチ刑務所に収容されることになったのだ。
ドラプチで課せられた処罰は恐ろしいものだった。サンドルは鉄の棒やゴム管で叩かれ、電流の流れる牛追い棒を舌に突きつけられた。手がマメだらけになるまで編み物や糸つむぎをさせられた。そして、完全な暗室の独房で6ヶ月を過ごした。また、極度に不快な労働も収容者には課せられた。「例えば、庭仕事には人糞を使うことになっていましたが、順番で便所に行き、くみ上げたものをリレーして回収していました。バケツを引き上げると、しぶきがはねて辺りに飛び散り、口の中にも入りました」。
このような待遇から、彼女は現在でも頭痛や腎臓と胃の病に悩まされている。しかし、「精神的拷問のほうがさらに酷かった」と彼女はいう。「ダライ・ラマ法王の非難を強要され、祈りをささげることも許されなかった」。彼女が仏教をどれだけ信仰しているか、そしてなぜ刑務所でこのような行動を取ったかが、この回答から伺える。
刑務所内でサンドルは繰り返し反抗を見せてきた。例えば、反体制的な歌を刑務所内で録音し、刑務所の外に持ち出した。それらの結果、彼女の刑期はさらに延長された。
しかし、自分を犠牲にしても価値のあることだったと彼女は言う。
「この刑務所に最初に行った時から、ここでは拷問のようなことが行われていることを知っていました。しかしそのことよりも、侵略者が私たちの国に来て、私たちを裁判にかけていることのほうが怒りを感じた」1950年、中国がチベットに侵略、その後も支配を続けている。
2002年の10月、最終的に彼女は解放された。素行優良という理由での解放だったが、それは江沢民ジョージ・ブッシュをテキサスの牧場に尋ねた数日前でもあった。サンドルは自由を勝ち取ったが、しかし家族を失うことになった。解放の5ヵ月後、チベットを去るように強要され、3人の兄弟姉妹とお別れしなければいけなかった。それ以来、会えずにいる。
彼女は現在、人権アナリストとしてアメリカの「International Canpaing for Tibet」で働いている。
これから何年かは、語学の勉強をし、ダライ・ラマの提唱する「中間」のアプローチを訴えていきたい、と彼女は語る。中間、とはチベットの独立ではなく自治を目指す運動のことである。彼女のアメリカでの新しい人生は、個人的にも大きな意味を持った。「刑務所の中では、どんな宗教活動も許されていなかった。だけれども今はチャンスがある。素敵です。」と彼女は言った。

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